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神会は無念の思想と境界とを李通玄から学んだ
   日本印度学仏教学会 第六十六回学術大会発表論文[2015.9.19]
   小島岱山著、華厳学研究所
   本体1,000円+税、ISBN 978-4-7963-0258-6 C3015 P1000E
   発売所 山喜房佛書林

[概要紹介]

神会は無念の思想と境界とを李通玄から学んだ

まさか、の出来事が起こった。神会は無念の思想と境界とを李通玄から学んだのである。無念の思想と境界と言えば、 『六祖壇経』に「無念を立てて宗と為す」とあるように、 又、 『神会語録』 にも全く同じく 「無念を立てて宗と為す」 とあるように、南宗禅の根本の思想と境界とであり、神会の禅の根本の思想と境界とでもある。その無念の思想と境界とが李通玄に由来することを本拙書は論證するものである。 胡適こせき も、鈴木大拙も、宇井伯壽も、柳田聖山も、誰一人、気づかなかったことであり、禅思想研究上の、或いは、禅思想史研究上の大発見であると自負する次第である。

従来の禅思想研究の、或いは禅思想史研究の基準の人物は教禅一致説を唱えた 宗密しゅうみつ であり、基準の典籍は宗密の『禅源諸詮集都序』であるが、これからは、基準の人物は教禅相即円融(説)の立場に立つ李通玄ということになり、基準の典籍は李通玄の『新華厳経論』四十巻と『略釈新華厳経修行次第決疑論』四巻と『 解明顕智成悲十明論げみょうけんちじょうひじゅうみょうろん 』一巻ということになる。禅思想研究も禅思想史研究も大転換を、大変革をせまられることになったというわけである。

すなわち、胡適、鈴木大拙、宇井伯壽、柳田聖山らによる南宗禅思想・思想史研究のすべてが、とりわけその根本的な部分が、いや南宗禅思想・思想史に関する過去の研究のすべてが、土台の部分の崩壊により、砂上の楼閣と化してしまったということである。勿論、宗密の教禅一致説なども、とりわけその根本的な部分は、いや枝末の部分に到るまで、 これ又、 砂上の楼閣と化してしまったということになる。何となれば、後で詳しく論ずるが、李通玄の教即禅の禅が、教禅相即円融の禅が、そのままで南宗禅そのものであるのだから、一致も何もないからである。一致も何もない、と言い得る根本の 理由わけ は、論ずるまでもなく教禅一致説というのは、教と禅とが本来、分離していることを前提にした学説だからである。ということは、宗密に軸足を置いた石井修道や吉津宜英をはじめとする多くの禅学者たちの諸研究も、やはりその根本的な部分が、いやその枝葉の部分までもが、幻の楼閣の存在と化してしまったということになる。

なお、使用したテキストは、 『大正大蔵経』(「大正」と略称)所収のものと楊曽文編『神会和尚禅話録』(「神録」と略称)とである。

南宗禅の祖は六祖慧能に非ず、李通玄なり

以上の論述で、神会は無念の思想と境界とを李通玄から学んだのだということが完璧に證明できていると御判断いただけるものと思う。

又、この事実から、南宗禅は実質的には李通玄から始まったのであり、南宗禅の祖は実質上は李通玄であり、さらに言えば、南宗禅の祖は六祖慧能ではないと知られよう。この結果の影響力たるや計り知れない。千三百年にわたる南宗禅思想・思想史が、その根本のところで崩壊してしまったわけであり、したがって、南宗禅思想・思想史に関する一切の研究も、又、宗密の教禅一致説も「はじめに」でも論じたように、砂上の楼閣と化してしまったということになる。当然ながら伝統諸禅宗に於ける嗣法の体系、 すなわち法系の存在についても、 その正統性が消滅してしまったということであり、したがって伝統諸禅宗そのものの正統性も失われてしまったということにもなる。李通玄の極頓の禅を百パーセント受け継いでいるのは『臨済録』のみであり、八十パーセント受け継いでいるのは『大慧語録』のみである。この二種の語録のみ、正真正銘の南宗禅の語録と言える。

さらには、これからの南宗禅思想・思想史研究は、これ又、 「はじめに」でも述べたように、人物としては李通玄、典籍としては李通玄の『新華厳経論』と『決疑論』と『十明論』 、学説としては李通玄の教禅相即円融(説)が、それぞれ基準になるということである。さらには又、これからは『六祖壇経』( 「坐禅=漸悟の修行方法」の実践書)に代わって、李通玄の『十明論』( 「観法=頓悟の修行方法」の実践書)が南宗禅の根本の実践書ということになる。

最後に『六祖壇経』 (以下、 『壇経』と略称)について極めて簡単にではあるが論じておこう。既に言われているように『壇経』は神会の手になるものであるのは、筆者も、 ほぼ間違いないと考える。 それは、 『壇経』 の思想や境界のほとんどすべてが、李通玄の三種の典籍中の思想や境界と相応するからである。すなわち、 『壇経』は、神会が、李通玄の三種の典籍中から取り出した思想や境界を、そっくりそのまま採用していると思われる部分と、神会がアレンジを加えて採用していると考えられる部分と、さらには李通玄の影を消すために、李通玄とは全く関係のない諸思想や諸境界を諸経典や諸禅籍から取り出して、その取り出した諸思想や諸境界を、李通玄に由来している諸思想や諸境界の上にふりかけ覆っている部分と、或いは取り出した、李通玄とは全く関係のない諸思想や諸境界を李通玄に由来する諸思想や諸境界とまぶし混ぜ合わせている部分とから成り立っていると、筆者には思えるからである。今、筆者は『南宗禅の祖は李通玄である』と『神会は坐禅の否定や戒の思想も李通玄から学んだ』と『李通玄と神会と六祖壇経』とを執筆中である。特に三番目の拙書に於いて『六祖壇経』の成立事情や思想内容について詳しく論究しているので、 『六祖壇経』についてはこの三番目の拙書(近日中に、三種の拙書すべて東大赤門前の山喜房仏書林より発売予定)を御参照いただけるものならば幸いである。

詳しくは『神会は無念の思想と境界とを李通玄から学んだ』(山喜房仏書林より発売)をご参照ください。


Institute of Kegon Studies / 華厳学研究所